オッペンハイマーが後悔していたなんて許されない

アカデミー賞を総なめにした映画。

前評判では

  • 広島、長崎の惨状を十分に描いていない。
  • いや、彼の後悔をもって、十分描かれている

とのこと。私の先入観は

  • とうとうアメリカも核使用を反省して見せた。それは、プーチンの核使用も辞さない姿勢に対する「俺たちの方が理性的」という対抗心だろう。

見てみると、大作を見たぞ感はある。アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグフェルミと次々と量子力学のビッグネームが登場して、事績を匂わせる台詞にはちょっと興奮する。でもなにかとても不満だった。その一番は、何を考えてるのかよくわからない人だ、ということ。そして、もう一つは、そんなに反省してねぇな、ということ。

まず、彼には信念ってあるのか。愛国心、組合や左翼運動への共感、名声への野心、繰り返される不倫。言葉では言うけど、彼の信念のようなもの(のヒント)がちっとも描かれないから、どれくらい本気なやつなのかわからない。だいたいちっとも女好きには見えない。ホームシックとか、不倫相手の自殺とか、怯えるところは印象的なんだけどね。まあそれがあるから、トリニティ実験では「大気の引火」にちっとも怯えていないことがわかるけど。ちなみに “We knew the world would not be the same,--- A few people laughed, a few people cried, most people were silent.” とは描かれていないよね、みんな嬉しそうに大騒ぎしてる。

クリストファー・ノーランのおかげで時系列が飛びまくることもあるけど、やはり「実際の原爆投下後の惨状にショックを受けて水爆に反対し始めた」というふうに理解するのは無理があるような気がする。

ロスアラモスでE.テラーに反対するのは、まずは早く原爆を作りたいからだし、戦後、水爆に反対するときには、アメリカが作ればソ連も作らざるを得ない、という抑止力理論を振りかざすけれども、それより、得られた名声が学者ではなく軍人や政治家に奪われ、一時的なものに過ぎないことが不満でひねくれているだけ、というふうに見えてしまう。

原爆投下はやはり戦争終結を早めるに必要不可欠だった、とオッペンハイマーに繰り返させる一方、有名なヴィシュヌのセリフ “Now I Am Become Death, the Destroyer of Worlds.” はマンハッタン計画の前から知っていることになっていて、戦後にヒンドゥー教に傾倒して、原爆投下への悔恨として話したようにはなっていない。前述のトリニティ実験後の様子を彼が後に語った様子とは異なったように描いていることも含めて、全米で広く公開される内容としては、原爆の父が激しく後悔している様は受け入れがたいということか。原爆投下から78年たっても、いまだそれがアメリカ国民の一般的な感情、と推し量ることができたような気がする。

ノーランはオッペンハイマーのクローズアップを多用した。ポートレート風に周囲はボケている。それは、彼が大局的に判断する人ではなく、目の前の事実に対処していっただけの人だから、周囲が見えていない、ということを表しているようにも思える。広島、長崎の映像は見せない。それはオッペンハイマーには見えていなかったからだ。