盗作作戦

パクリは原作への最大の賛美である。パクリが明らかなら問題ないのだろう。記事やblogを盗むとこっそり過ぎて、相当とっちめられる。映画はちょっと不思議だ。例えばデ・パルマアンタッチャブルのクライマックスは階段を下って行く乳母車の周りで銃撃戦だ。どこにも書いてなくても明らかにポチョムキンのマネってことで、わかる人はわかるってことで、文句は言われない。あれは明らかなのかな。
ところが詩や曲ではこっそりやってはいけないらしい。かといって、金を払えとか罰せられるとかそういうことで納得するんじゃないところが面白いというか日本的だ。松本零士は「本人が挨拶しろ」と言っているだけだ。参考資料と明示したにもかかわらず、お前がやったのは作詞ではなく編詩程度だ、原作者への感謝が足りないと言われてしまう宮崎吾郎表現者の才能が認められていないのだろうが、要は感謝すればいいらしい。ホントにそれで許してもらえるのか。
小林亜星服部克久に、結果として似てたんだから金払えってことなら双方円く収まるだろうが、悪行を認めて謝れ、というから収まらないのだ。金で解決するほうがいいこともある。
だいたい西洋音階で日本語の歌を作れば、いろは48文字と12音階とありきたりのリズムの羅列なのである。そのうち一周する。私のは全てパクリでございますと言ってしまう桑田さんの方が潔い。
訴える方の宣伝活動であることは明らかだ。宣伝が足りないから、怒られるのだ。朔太郎は死んでるから本人の宣伝ではないが。